
愛知県豊橋市にある豊橋技術科学大学は、新潟県長岡市の長岡技術科学大学とともに1976年に設立された国立の技術科学大学だ。実践的な技術開発を教育研究の主眼とし、多くの技術者、研究者を輩出してきた同校では、DXにどのように取り組んでいるのか。IT活用教育センター長を務める中内茂樹特命理事・副学長に、大学教育におけるDXの本質についてうかがった。
コロナ禍が可視化した「対面」の価値
――豊橋技術科学大学は、高専出身者が多く学ぶ特徴的な大学と聞きました。まず、大学の特徴について教えてください。
中内茂樹(以下、中内) 本学は全国に58ある高等専門学校、いわゆる高専の卒業生を主に受け入れる技術科学大学です。学部3年生の約8割が高専からの編入学生で、実践的な技術教育を受けてきた高専出身者がさらに高度な研究開発能力を身につける場になっています。学部卒業後はが大学院に進むなど、大学院教育にも重点を置いています。
卒業生の多くが、地元の愛知県をはじめ、全国の大手メーカーやIT・通信系企業などで活躍しており、日経独自調査の企業人事担当者への調査で、「採用を増やしたい大学ランキング」全国1位(※)となった実績もあります。
※出典:日経HR『日経キャリアマガジン 価値ある大学2023-2024 就職力ランキング
――この全国の企業からも注目される大学で、中内先生はIT活用教育センター長を務めておられます。このセンターはどのような役割を担っているのでしょうか。
中内 IT活用教育センター(CITE/サイト)は、コロナ禍の2020年に設立されました。当時、全国の大学が一斉にオンライン授業に移行する中で、本学でも急速にICT環境を整備する必要があり、デジタルコンテンツの作成支援やリモート授業のサポートを担う組織として立ち上がりました。現在は高専との連携強化やデータサイエンス教育、PBL(課題解決型学習)の支援など、学内のDXを主導する取り組みを行っています。
たとえば、高専との連携では、モデルカリキュラムを共同で作成し、DXプラットフォームで共有しています。これによって、学生の多くを占める高専出身者は、本学に編入する際によりスムーズにカリキュラムに入ることができます。また、学生に対してはBYOD(自分のパソコンを持ち込んで学習に活用する)方式を取っていますから、その技術的支援も行っています。
すでに大学教育は知識を教授するだけの時代ではなくなっています。PBLやケーススタディ、チームビルディングなど、デジタルツールを活用した新しい学びの形をサポートすることが重要です。高専で実践的な技術教育を受けてきた学生たちが、本学でさらに高度な研究開発能力と協働する力を身につけられるよう、カリキュラムを設計しています。
リモートワークで失われた「偶発的な出会い」
――コロナ禍を経て、オンライン授業やリモートワークが普及しました。どのような課題が見えてきたのでしょうか。
中内 本学は2002年から東フィンランド大学との教育研究交流を続けていますが、フィンランドのDXに対する取り組みは常に先進的で、いつも刺激を受けています。その中でリモートワークについても彼らは興味深い知見を得ています。リモートワークを導入した企業の生産性を調査したところ、上がったというところと下がったというところが混在する結果になりました。なぜかというと、その運用の仕方に差があったからです。
リモートワークやDXの仕組みを整えて、「さぁ、これでどこでも仕事ができるでしょう」と丸投げをしているところはうまくいきません。「リモートワークパラドックス」という言葉があるのですが、リモートワークによって真面目な人ほど働きすぎてしまい、ウェルビーイングが大きく低下して、結果的に生産性にも悪影響が出る場合もあるのです。
この研究が示しているのは、「リモートワークでうまく働けるかどうかの責任を、働く人個人に転嫁してはいけない」ということです。リモートワークを成功させるには、組織の側が明確な目標設定をし、適切なコミュニケーションの機会を設け、働く人をサポートする体制を整える必要があります。
リモートワークでは「Informal Encounters」、つまり偶発的な出会いや何気ない会話をする機会は明らかに少なくなります。しかし、オフィスの廊下ですれ違った際に「そういえば、あの件どうなった?」と声をかけたり、休憩室でコーヒーを飲みながら雑談したりする。こうした一見無駄に見える時間が、実は新しいアイデアや協働のきっかけになります。このことも加味して、リモートワークを設計・運用していく必要があります。
同じことは、大学教育にも当てはまります。「オンラインでも学べるでしょう」と学生に任せるのではなく、大学側が対面とオンラインをどう組み合わせるか、学生同士の交流をどう促すかを、責任を持って設計する必要があるということです。
図書館改修が体現する「デジタル化できない価値」
――こうした知見も踏まえて、キャンパス環境の整備にも取り組んでおられるとうかがいました。
中内 はい。その一例が、2017年に全面改修した図書館です。従来の「静かに個人で勉強する場所」から、「学生が集まって議論し、協働する場所」へと転換しました。可動式の机や椅子を配置し、グループディスカッション用の個室やホワイトボード、大型ディスプレイなども設置しています。
ただ、私たちが最もこだわったのは、最新設備を入れることではなく、「デジタル化できない価値」を大切にすることでした。
――デジタル化できない価値とは、具体的にどのようなことでしょうか。
中内 五感に訴える要素です。たとえば、図書館の入り口には本格的なコーヒーを提供するキッチンカーがあり、コーヒーの良い香りを感じることができます。一階のラウンジの一画には、床やテーブルに無垢材を用いたスペースを作り、木の温もりや手触りを感じられるようにしました。
現在、デジタル化できるのは、記号、つまり文字と、映像、音声の3種類だけです。しかし、人間の感覚はそれだけではありません。嗅覚、触覚、そして「その場にいる」という存在感。これらはまだデジタルでは記録も再現もできないものです。一見、些細なことのように思えるかもしれませんが、こうした感覚的な要素が、学生たちが図書館に来たくなる理由になり、そこで偶発的な出会いが生まれ、新しいアイデアが生まれるきっかけになります。実際、学生たちはデジタルツールを使いながらも、紙のノートに書き込んだり、ホワイトボードに図を描いて議論したりしています。特に、問題を解くときには、ホワイトボードを使って仲間と一緒に考えるスタイルが非常に多い。複数の人が同時に書き込め、全体を俯瞰でき、指差しながら議論できるからです。
このことは、教育におけるDXを考える上で非常に重要です。つまり、デジタル技術を導入することが目的ではなく、学生の学びを深めるために、デジタルとアナログをどう組み合わせるかを考えることが本質だということです。
――そうした「デジタル化できない価値」という視点から、AIと人間の関係についてはどうお考えですか。
中内 パソコンの漢字変換に慣れてしまって、漢字を読めても書けなくなる、という経験をした方も多いと思います。AIも同じで、情報を集める際にはAIを活用すればいいと思いますが、その後の判断まで全て任せてしまうと、自らの認知能力が衰える可能性がありますし、実際にそのような研究結果も発表されています。
そして倫理観です。AI自体は倫理観を持っていません。倫理的な判断は、価値観や世界観、歴史的な背景からくるものですが、AIに頼りきりになれば、そうしたものの価値は軽視されて、いま現在の価値という面からだけで物事が決められてしまう怖さがあります。
IT先進国であるフィンランドでは、現在、デジタル教科書をやめて紙の教科書に戻す動きが広まっています。子供の読解力や集中力の低下につながる懸念が出てきたからです。日本ではこれからデジタル教科書を導入しようとしている段階ですから、こうした先行事例から学べることは多いのではないでしょうか。
デジタル技術やAIは強力なツールですが、人間が何を目的として使うのか、何を判断の軸とするのかがより重要です。技術を研究する大学だからこそ、AIには持ち得ない倫理観や、デジタル化できない五感の価値に注目する必要があると考えています。
「共創」を生む場としてのイノベーション・コモンズ
――2026年の開学50周年に向けて、「イノベーション・コモンズ」構想の実現に取り組まれていると聞きました。これはどのような取り組みなのでしょうか。
中内 イノベーション・コモンズは、地域や産業界との連携と共創によって、地域の課題解決とイノベーション創出を目指す取り組みです。そのために、キャンパスのなかに企業や地域の方々にも入っていただき、学生や教員たちと交流と共創ができるような「場」を設け、「偶発的な出会い」を促進する空間や仕掛けも学内のあちこちに設ける予定です。
これらの場所で、誰かと誰かがたまたま会って、その時の立ち話から新しいアイデアが生まれる。そこにみんなが見られるプロジェクターや、自由に使える3Dプリンターなどの設備があれば、「じゃあ、いますぐやってみよう」とその場でアイデアを形にすることができます。偶発性を意図的に設計し、そこから生まれた可能性の具現化をサポートする。そういう場にしていきたいと考えています。
地域と共に育てる次世代人材
――こうした共創の場づくりにおいて、企業とはどのような連携を進めているのでしょうか。
中内 本学の強みの一つが半導体です。学内にある次世代半導体・センサ科学研究所(IRES2/アイリス)は、半導体の設計・製作・評価までを一貫して行うことができます。他の大学では類をみない施設で、多くの企業の研究者が視察や実習に訪れています。また2025年6月には、このIRES2の新工場とオープンラボ棟が完成しました。オープンラボ棟には企業向けの研究個室が12部屋あり、共創のためのスペースも備えています。ここに企業に入居していただき、企業の研究者と本学の学生・教員が一緒に研究開発を進める共同研究の場となる予定です。学生は企業の最前線で働く研究者の考え方を間近で学ぶことができ、企業側も最新の学術知見や学生の柔軟な発想に触れることができるようになるでしょう。
――地域との連携という観点も含めて、これからの人材育成についてどうお考えですか。
中内 中部地域全体として、優秀な学生が東京に流出してしまうという課題を抱えています。この地域には、自動車産業をはじめとする優れた製造業やものづくり企業が多数ありますが、学生たちにその魅力がまだ十分に伝わっていないことも原因の一つだと思います。
そこで、中部地域の国立大学が連携してコンソーシアムを立ち上げ、学校間での教育プログラムの共有や、地域企業との連携を強化しています。学生たちには、イノベーション・コモンズの取り組みと併せて、実際の社会課題に触れ、企業の方々と解決策を考える経験を通じて、地域の産業の魅力とこの地域で働くことの意義を実感してもらいたいと思っています。
私たちが育てたいのは、役に立つ人材というよりも「社会を変える力を持った人材」です。技術や知識があるだけでなく、それを使って地域や社会の課題を解決できる力を持ち、異なる分野の人たちと協働しながら新しい価値を生み出せる人です。別の言い方をすれば、「技術を知り尽くして理想的に使いこなせる一方で、コーヒーの匂いもわかる人材」です。デジタル技術を使いこなしながらも、人間にしかできない判断や、五感で感じ取ることの価値を理解している。そういう人材を育てていきたいと思っています。 こうした力を身につけるには、キャンパスで多様な人たちと出会い、議論し、時には失敗しながら学ぶ経験が不可欠です。イノベーション・コモンズの取り組みがその基盤となり、社会をより良い方向に導く人材が育っていくことを期待しています。

<プロフィール>
中内茂樹(なかうち・しげき)
国立大学法人豊橋技術科学大学
特命理事・副学長(DX・国際担当)
附属図書館長/情報・知能工学系 教授
専門は視覚認知情報学。2020年より副学長(国際連携担当)、2024年にはIT活用教育センター長に就任し、コロナ禍でのICT教育基盤整備を主導。対面とデジタルを組み合わせた教育環境の構築を推進する。フィンランドの東フィンランド大学との30年以上にわたる国際連携のもと、リモートワークやデジタル教育に関する共同研究を実施。2024年には東フィンランド大学から名誉博士号を授与された。
イトーキコメント:小笠原
お話に深く共感いたしました。私たちも、長年デジタルとアナログ双方の価値を融合したデザイン提案を行ってきました。大学教育におけるイノベーション・コモンズの重要性や五感、体験を通じた人材育成の観点にも強く共鳴を感じました。「社会を変える人材」を支える空間と仕組みづくりを、ご一緒に推進してまいりたいと考えています。
































