ジャズピアニスト、数学研究者、STEAM教育家、メディアアーティスト、起業家など、多彩な顔を持つ中島さち子さん。類いまれなるその才能は、いかにして形成されたのでしょうか。これまでの学び、仕事との向き合い方について話を聞きました。
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曲に味を出すには人生経験が必要
ピアノを始めたきっかけを教えてください。
音楽に合わせて体を動かすという教室に3歳から通っていたのですが、ちゃんとピアノを弾くようになったのは4歳の頃、大阪から東京の町田に引っ越してきてからですね。町田の音楽教室ではもちろん弾き方も学びましたが、途中から作曲専門コースに入りました。自分で曲を作り、譜面に起こして、タイトルをつけて、みんなの前で発表する。そういうのがすごく楽しかったんですよ。作曲というと難しく感じるかもしれませんが、たぶん作文と同じように、誰もができることだと思います。雨っぽい音とか、風っぽい音とかを考えて、そこに「構造」を少し加えるだけで曲っぽくなるんですよね。
子どもの頃、好きなアーティストはいたのですか?
それが、誰もいませんでした。他の人の曲を聴くと、影響されちゃうじゃないですか。だから私は徹底的に「聴かない主義」で、CDなども全然聴かなかったです。それが良いか悪いかはともかく、当時はそうでしたね。
子どもの頃からオリジナルを大切にされていたんですね。そんなに音楽が好きだったのに、中学2年の時にきっぱりやめてしまったそうですが、どうしてですか?
その頃、ピアノ、作曲、エレクトーン、グループレッスンと、4つのクラスに通っていたんですが、作る曲がみんな似てきちゃったんですよ。なぜだろうと考えた時に、私には人生経験が足りない、曲に味を出すには人生経験が必要だから、今はもう限界なんじゃないかと思ったんです。ところが音楽をやめると時間がすごくできて、その頃に数学や小説に出会ったんですよね。数学にはもともと憧れがあったんです。計算やテストにではなく、「数学者」という存在に対して。中学1年の時に「数学は美しい」とおっしゃる年配の先生がいて、すごく好きだったんですよ。数学者というと芸術家以上に浮世人みたいなところがあるじゃないですか(笑)。せちがらい世の中とはかけ離れたところで何かをずっと考えていて、突然ひらめいた! みたいな。そういう世界が素敵だなと思っていたんです。小説は、母がロシア文学を好きで、話をよく聞かされていました。それでロシア文学ってどんなものだろうと興味を持ち、ドストエフスキーやトルストイ、ゴーリキー、ゴーゴリなどを読み始めて、そこから魯迅やジャン・コクトー、ニーチェなども読んだりするようになりました。
私、みんなから文系だと思われていたんです
音楽よりも面白いものを見つけてしまった、ということなんですね。それで、高校2年の時に国際数学オリンピックに出場し、日本人女性初の金メダルを獲得されました。
中学3年生の時、「大学への数学」という雑誌でピーター・フランクルさん※1が出題する問題に毎月投稿していたんです。こういう難問に投稿するのはマニアックな人ばかりで、毎回同じような名前を見ているうちにシンパシーが湧いてくるんですよね。その中に年の近い子が何人かいて、国際数学オリンピックに出たことがあるというんです。実は1カ月かけて解いた2回目の投稿のあと、ピーターさんから事務所に遊びに来ないかと直接電話をいただいたんですよ。行ってみると投稿して名前が載っているような子たちが何人かいて、面白い問いに自由に向き合っている。証明せよというお題が面白いのは、答えが一つではないところです。代数的に解こうとする人もいれば、幾何的にやる人もいるし、哲学的に考える人もいる。自分では決して思いつかないような視点で解いたりするので、すごく面白いんですね。そうやって仲間から刺激をもらううち、私も国際数学オリンピックに出たいと思うようになったんです。
国際数学オリンピックには、国内の予選、本選を経て20人くらいで春合宿をして、そこで選ばれた6人が出場できるんです。それで高校2年の時にインドで開かれた国際数学オリンピックに出場して金メダル、翌年のアルゼンチン大会は銀メダルをいただきました。インドではカルチャーショックを受けましたね。その頃は小説をたくさん読んでいて、人間の混沌とした部分を多少はわかったつもりでいたんですが、実際に街に出ると貧しい子どもたちがたくさんいるんですよね。おそらく学校にも行けないのでしょう。でも私が笑いかけると笑顔を返してくれるし、澄んだ眼で好奇心がとても強そうでした。私たちをアテンドしてくれた現地の人も、日本ってどんな国なの? 教育は? 宗教は? 政治は? と立て続けに聞いてくるんですよね。そんなふうに聞かれると私は思っていた以上に何も答えられなくて、インドから帰った後に日本のことをいろいろ調べたことを覚えています。アルゼンチンはインドとはまた全然違って、ラテンのノリでとにかく明るかった。国際数学オリンピックは採点に3日ほどかかり、結果が出るまでは観光や国際交流に充てられるんです。それがすごく面白くて、いい経験をさせていただきました。ちなみに2023年には、国際数学オリンピックと国際物理オリンピックが日本で開催されるんですよ。そこで私も何かできないかなと思っているところです。
東京大学(理学部数学科)には数学を究めようということで入ったのですか?
高3の頃、国際数学オリンピックの先輩で、当時東大生だった人がゼミを立ち上げて、私もそこに毎週のように通っていたんです。だから東大にはその流れで自然に進学した感じですね。そのうちに、先輩たちが河合塾傘下に「K会」という中高生のための現代数学の学び場を作り、自分たちでカリキュラムを考え、教科書を作るようになったんです。締め切り前にはみんなで泊まり込みをするような、バイトの域を越えた本格的なものだったんですけど、私も大学1年からそれを手伝うようになり、どんどん入り込んでしまいました(笑)。
その頃は、どんな将来設計を描いていたのでしょう。
実は私、みんなから文系だと思われていたんですよ。文系は答えがないから面白いと思い、大学1、2年生のときは法律や政治、中国の古い文学というような授業ばかり取っていたんです。気持ちのどこかでは「将来は数学者に」と思いつつも、人生1回きりだし、どうしようかなと。研究ってどちらかというと内省的じゃないですか。私は内省的な世界と同時に社会と交わることも好きなので、自分なりに数学や音楽の創造の喜びを伝える仕事を新たに切り開くこともできるんじゃないかと、そんな感じでずっと迷っていましたね。
本来の数学は、自由に考えること
そんな中島さんが、今度はジャズにのめり込んでしまうんですね。
最初は遊びでやろうと思って、ビッグバンドに入ったんです。でも仲間の一人に、君はジャズ研に行くべきだと言われて。行き始めたら、これがすごく面白いんですよ。ジャズは、テクニックはもちろん大事ですけど、セッションで人と出会い、自由に、自分の声で表現していけるところがいいんですよね。特にあの頃のジャズ研は魔物のような存在で、24時間音を出せたので、東大じゃない人たちもたくさん集まってよくセッションしていました。私たちがやりすぎたせいか、今では時間制限が設けられたようですけど(笑)。
卒業後、すぐにプロになられましたが、その決断は簡単なものでしたか?
4年生の夏に二つのジャズ系のフェスに出たんです。一つはアーマッド・ジャマル※2のコピー、もう一つは自由に自分を表現するみたいなことをやって、その時に「つかんだ」感覚があったんですよね。それで院試の前日に、1年間は音楽に没頭しようと決めたんです。翌日の院試は欠席したので、みんなどよめいたみたいです。「中島がいない!」って(笑)。ジャズのプロって、オーケストラに入るのとはまた違って、自分たちでライブハウスと交渉し、客を呼べるならやらせてやる、みたいな感じなんですよ。それで、ちょうど同い年くらいに面白いミュージシャンがいたので、トリオを作って演奏活動を始めたんです。その頃、同時に「渋さ知らズ」※3にも参加するようになって、どんどん道が開けてきて、「じゃあ1年といわず」という感じになっていったんですよね。
その後結婚され、お子さんを出産されましたが、これが音楽性や、仕事に対するスタンスに影響を与えたということはあったのでしょうか?
年金とか保険とか、急に現実に立ち返りましたね(笑)。それまでは、そういうことをあまり考えてこなかったので。音楽性でいうと、やはり腰が座り演奏の仕方がやさしくなったと言われました。ロックを聴くのも結構好きだったんですが、激しすぎるのがだんだんつらくなって、クラシックの深い魅力にも気づくようになった。仕事については、その頃からだんだん社会に貢献する仕事をしたいと考えるようになりました。K会は卒業後も続けていて、理論的なことを体験的にやってみるとか、一方的に教えるのではなく、本人が自分で発見したと思えるような伝え方ができないかとか、そんなことをずっと模索していました。数学というのは本当に面白いんですよ。例えば学校で教わる2cmは2cmですけど、トポロジー(位相幾何学)の世界では2兆kmにもなるし、ものすごく微小にもなる。そういう緩やかさというか、設定を変えた瞬間にまた新たな数学が生まれて、思いがけないものにつながっていったりする。もう、哲学に近いです。計算を頑張ることも悪くはないんですが、時間がかかるわりに、だいたいのことはコンピューターが代わりにやってくれるでしょう。本来の数学は、自由に考えること、新しいものの見方ができるようになることで、そういう数学を知るほうが人生には役に立つと思うんですよね。
2012年に、教育系企業に就職されているんですね。
会社勤めというのは、その時が初めての経験でした。それまではK会にしてもライブにしても、夜の仕事が多かったんですけど、ちょうど子どもが小学校に上がる時期だったので、昼間できる仕事はないかと思ったんです。入ったのはeラーニングの会社で、副業OK、終業時間は16時という契約だったんですが、だんだん終電で帰る感じになって、「結局、夜いないじゃないか」みたいな(苦笑)。母には本当にお世話になっています。でも、会社員としての心得はここで全部たたき込まれましたね。メールの書き方とか、パワポ、エクセルの使い方とか。それに私は英語が得意だったので、オープンユニバーシティーやMBAの業務、社内起業にも携わりました。ここでの経験が、後に自分で起業する時に役立ったのは確かです。ただ、だんだん講演などの仕事が増えて、会社とのやりくりが難しくなり、2017年に退職しました。それで、このタイミングでアメリカに留学するためフルブライト奨学金に申し込み、同時に会社(株式会社steAm)を立ち上げたんです。留学と会社の運営、どちらを優先するか迷ったのですが、結局両方やろうと決めて、2018年8月からニューヨーク大学(芸術学部修士課程ITP)に留学しました。実際、アメリカにいても、ズームなどを利用することで会社の仕事はほとんどこなすことができましたね。時差の関係で夜中にミーティングをしたり、月1、2回は日本に帰ってきたりして、思ったより大変でしたけど。そのうちだんだんと会社は軌道に乗り、2020年6月に帰国してからは本格的に会社で活動しています。
アートとは、本質的なものに向き合うということ
株式会社steAm は、STEAM 教育※4の普及を目指したものだそうですが、STEM、またはSTEAMとの出会いを教えてください。
深く知ったのは2010~11年くらいでしょうか。2000年頃から無料で学びを開くという流れがMITなどから始まっていて、最初はそんな世界の動きに驚き魅惑されました。その中でSTEM・STEAMの考え方にもより深く出会うようになった。日本でSTEMというと単に頭文字で見てしまいますが、海外では「理系の知識を得て正しく解く」というだけではなく、科学者のように考える、エンジニアのように作る、アーティストのように創造する、というような文脈で説明されているんです。答えがないものに対して、自分なりに問いを立てて試行錯誤する。その時に先人が作ってきた「知」は役立つかもしれないけど、どちらかというと「自分が知の作り手になる」ような学び方、そこへのシフトが最も大切だと語られているんですね。ところが日本の場合はSTEMが「理系教育」と訳されてしまったので、その背後にあるワクワク感、科学者のような学び方をする、というような文脈が語られなかった。だからこそ、日本ではあまりはやらなかったとも言えるのですが。
私はSTEMの中に、もともとAは入っていると思っているんですが、あえてAを強調してSTEAMとしたほうが日本人には刺さると思いました。できればAはアートじゃなくてアーツとするほうがより広い文脈になるので、いろんな分野の人たちが「自分も入っている」と思えるんじゃないでしょうか。問いを生み出すというのは、「幸せってなんだろう」みたいな本質的なものに向き合うということで、そもそもアートとはそういうものだと私は思っているんです。日本の教育は、例えば絵の描き方は教えるけど、それを生かして自分の世界観を表現するというところまではあまりやってこなかった。どんな科目でもいいから、そこにアートの文脈を入れる。あなたは何を考え、何を感じているのか、と。それを表現する機会を増やしていったほうが自己肯定感や幸せにつながるし、今の時代にもつながると思うんですよね。
社名のAだけ大文字にしているのは、そういう理由だったんですね。もう一つ、スポーツとコラボしたSTEAM×Sports Laboratoryという会社もやられていますね。
スポーツを数学や物理など、いろいろな世界からのぞくことで、新しい見え方がしないだろうか、ということから始まったんです。最初、タグラグビーを見せていただいた時に、これを盤ゲームみたいに考えたら面白いんじゃないかと思って、やり始めたら結構うまくいったんですよ。今まで選手が直感や経験に基づいてプレーしていたものを数理的にモデル化することができれば、実践に応用でき、他の人にこのスキルを提供したり、他のスポーツに応用したりできるのでは、と思っています。
中島さんにとって「働く」とは
「あなたには多様で爆発的ないのちの創造性があふれている」。これは私の信念みたいなもので、万人、万物には「いのち力」というものがあると思っているんです。例えばこの机にしても、創造性にあふれていると思うんですよ。創造性というと堅いイメージがあって、自分にはないんじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、生きているだけでも命というのは「創造性の嵐」だと思うんですね。生きているだけでもすごい、それをもっと感じられる社会になればいいなと思っています。「はたらく」とは、そうした多様な創造性を発揮して未来に価値を生み出していく非常に心躍ること。「学ぶ」も「はたらく」ももっと本気の、PLAYFULな意味合いや喜びを改めて社会が取り戻せるとよいなと思います。
※1 ピーター・フランクル/ハンガリー出身の数学者・大道芸人・タレント。国際数学オリンピック・日本チームコーチ、東京大学非常勤講師、フランス国立科学研究センター教授などを歴任
※2 アーマッド・ジャマル/アメリカ・ペンシルベニア州出身のジャズピアニスト、作曲家、教育者
※3 渋さ知らズ/ジャズベーシスト不破大輔を中心とするビッグバンド。ダンサーチームを帯同し、アングラシーンや海外公演で精力的に活動。多くのミュージシャンが出入りする
※4 2000年代にアメリカで始まった教育モデルSTEM =S(サイエンス)、T(テクノロジー)、E(エンジニアリング)、M(マセマティクス)に、A(アート)を加えた分野横断的な教育概念。
- 中島 さち子(なかじま さちこ)
- 株式会社steAm 代表取締役(CEO)/Playful STEAM Director
1979年生まれ。東京大学理学部数学科卒業。1996年、高校2年の時に国際数学オリンピックで日本人女性初の金メダルを獲得。翌年は銀メダル。東京大学時代にジャズに出会い、卒業後プロのピアニストに。2017年、STAEM教育の普及を目指して㈱steAmを設立。内閣府STEM Girls Ambassadors(理工系女子応援大使)、経済産業省「『未来の教室』とEdTech研究会」委員。2025年開催予定の大阪・関西万博ではテーマ事業プロデューサーを務める。音楽CDに「REJOICE」「希望の花」「妙心寺退蔵院から聴こえる音」、オンラインアルバムに「Time,Space,Existence」、著書に『人生を変える「数学」そして「音楽」』『音楽から聴こえる数学』(共に講談社)、絵本『タイショウ星人のふしぎな絵』(文研出版)などがある。